寺院の歴史
浄福寺の歴史
◎起 源
西安二年(1300年)庚子(かのえね)三月三日
美濃国郡上小川村、日出雲<ひずも>野々尻に来て
草庵を結ぶ。
●沙門龍念(〜正和元年[1312] 壬子(俗名・熊崎一郎左衛兼親))
・九州大分県・熊崎郷(現在の白杵市)城主で、戦に敗れ、家老職和田家と共に
移り住み、天台宗長瀧寺の弟子となり草庵を結ぶ《起源》
家宝:『がおろ[河童]の石』《珊瑚の化石》
・その後、熊崎と和田の一部は寒水に、また和田家は比較的近年に八幡町有穂に、和田の本家は
美並にと移住。そして、熊崎家の長男以外は下呂市他県下等に独立したため熊崎姓が多いが、
その由来を知るものは少ない。
◎熊野権現創設
天台の宗法に基づき、日出雲地区に守護社、熊野権現を創設す
●第3代 沙門龍善(龍念の孫)(〜延元元年(1336)丙子)
◎真宗への改宗
文亀元年(1501)辛酉(かのと とり)四月十五日、小駄良・了酉と親交あり、
従来天台宗長瀧寺の末日出雲道場、を改め真宗に改宗
●御本尊阿弥陀如来尊像を受け本願寺道場となる。
[「大谷本願寺釋実如(御判) 文亀元年六月十五日、
小駄良・了酉門徒濃州郡上郡気良(ノ)庄下保(しものほう) 小川釋浄本」とあり]
●第8代(浄土真宗開墓初代) 釋浄本(〜天文八年(1539))
◎寺基移転
寛永六年(1629)に寺基を現在地に移転。
●親鸞聖人御影 : 寛永十五年七月八日(第13代良如上人)
●蓮如上人御影 : 寛永二十年(同 良如上人)
●第13(6)代 釋祐酉(〜寛永二十年(1643))
◎阿弥陀如来本像の安置
●寺号を受け、浄福寺と号し・竹林山と称す。
(正保元年(1644)二月九日 : 第13代良如上人より)
●第14(7)代 釋龍道(〜万治元年(1658))
◎本堂建立
弘化四年(1847)(江戸時代後期)[資材 : 日出雲 欅材使用]
●山門建立 : 亭和元年(1801)
●鐘楼建立 : 文政三年(1820)
●第20(13)代 恵光院 釋龍泰(〜明治元年(1868))
◎本堂叶物・梵鐘等供出
●大東亜戦争(第2次世界大戦)で本堂叶物・梵鐘等供出させられるも戦後復興
●戦争により浄福寺門徒の多くも、尊い若い命を失い、歴史上初めてにして
悲惨な出来事となった。
●第23(16)代 春光院 釋行雲(〜昭和二十三年(1948)68歳)
(行雲 三男・義薫 〔昭和17年ニューギニアにて戦死、27才〕)
第17世 釋禅定も沖縄最前線に出兵寸前に終戦となり本堂庫裡を万歳して駆け回ったという。
もしその時戦死していたら第18世傑秀と子孫たちも存在しなかった。
◎第24(17)代
澍法院 釋禅定(明治四十年(1907)12.25〜昭和六十二年(1987))
●郡上組組長(4期16年)(本廟無量寿堂・御誕生800年 立教改宗750年法要他、
宗門関係事業、組内の寺院大法要・諸問題解決に貢献)
●庫裡新座敷増築、本堂・庫裡屋根改修、庫裡改修工事着工
◎現在住職
第25(18)代 釋傑秀(昭和二十二年(1947)〜)
●坊守 : 釋尼明華(まゆみ・昭和二十五年(1950))
・衆徒 : 秀峰、秀華(なみな)
以上